十三橋と渡し船 4 完成した十三橋
完成した十三橋
十三橋が完成したのは昭和34年秋のこと
大きな船も通ることができるように可動式の跳ね橋となっており
木造でカーブがあり、しかも跳ね橋ということで全国的にも珍しいとされたようである。
ところでこの写真、車が交差できるように膨らみのある所を撮っているのだが
手前中央辺りに散らばっているものは、もしかしたら馬の落とし物ではなかろうか(^^)/
1「渡し船と始まった橋の工事」に掲載した最初の写真が渡し場のもので
そこには2頭の馬がいて似たような物が~3ヶ所に確認できる。
父も苦笑しながらシャッターを切ったのかもしれない。
車が交差できるように橋には幅広い場所が作られている
車が通らないときは広くて気持ちの良い場所で、ちゃっかり釣りを楽しむ人も増えていった。
欄干に取り付けられた立札を写真の中で読み取ることはできないけれど
もしかしたら釣り人への注意喚起が書かれていたのかも・・・。
十三の集落から見ると渡し船でなければ行けなかった場所。
元々数軒の家が建っていて、渡し船か漁船で行き来していたもよう。
橋が出来てからは、橋向うの家という呼び方となって
そして電気も橋から引かれて、おぼろげな記憶だけれど明るく過ごせるようになった筈。
橋向うに走り去るトラックと、右の湖岸に見えるのは
橋ができるまで使われ続けた桟橋。
桟橋あとはずっと残っていて、私たちの良い遊び場にもなっていた。
橋を行くトラックは、何を沢山載せていたのだろうと、大きくしてみたら。
なんと驚くことに沢山の人であった。
何処か工事現場に行くのか、農作業なのか分からないが多くは女性のように見える。
トラックの荷台に人を載せて行くのも当時は普通のことだったが
もしかしたらあまりに大勢の人が乗っているのを見て、父も驚いたのかもしれない。
母と一緒に海へ行く
十三橋が完成した時、私は5歳の筈なので
この写真は橋の完成後、1年か2年後くらいに写したものかもしれない。
のんびりした楽しい時間が懐かしい。
橋が完成した時は大勢の人が集まって開通式が行われた。
その時、一度だけ跳ね橋が上がった
沢山の人と、上がった跳ね橋と、人々が旗を振っていたような記憶もある
写真も残されていたはずだが、残念なことに今は手元にない。
フィルムも写真も残っていなくて、父が公共の施設へ寄贈したと聞いたことはあるので
何処かに父の写真が残されているかもしれないと、いまは想像するだけである。
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十三橋の開通式については
RAB青森放送「あの瞬」の中の
「1959 十三橋開通 0245」という題名の動画で見ることができます。
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十三橋について
水辺の土木遺産達というブログ内で木の十三橋、新しい十三湖大橋
昔々の地図(航空写真)などを紹介しておられるブログがあります。
貴重な記録だと思いますので興味のある方は是非ご覧ください。
【現存しない橋】十三湖大橋の前身の跳開橋と、津軽の木橋
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十三橋について、偶然目にした文章を記したいと思います。
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昭和三十四年秋、木造の長い橋が十三潟水戸口を横断して架けられ、渡し船は廃止、
釣りの師匠の管理人さんとはお別れである。全長394メートル、幅3メートルと狭く、
中央付近には車が交差できるぐらいの広さがあり、十三側に船が通れる可動式の
開閉装置があった。木造の橋としては当時全国で有名になった。浅瀬にしっかり杭を
打ち込んで作った橋のせいか、途中でかなりカーブしていたが、強い西風にも耐える
丈夫な橋であった。
昭和54年コンクリートの十三湖大橋ができ、十三橋は役目を終えた。中島(なかのしま)
ブリッジパークに通じる橋は十三橋の古材で作られたそうである。
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北方新社 月刊弘前 2008年 10月号 第351号
医者さまのくりごと 十三湊診療ノート(六)松野栄造 より抜粋させていただきました。